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伝統を未来へ繋ぐ、服部の“ものづくり”

服部のブランド >>>

わたしたち「服部」の歴史は、天保元年(1830年)に服部庄兵衛が京都で「伊勢屋庄兵衛」という家号で創業したことからはじまります。後に、明治18年(1885年)に服部藤輔が旅行用品雑貨問屋として「服部商店」を創設した時に、現代まで連なる「服部」という屋号が誕生しました。

明治39年(1906年)には「服部合名会社」初代社長の服部清三郎が豊岡で生産していた「柳行李製品を携帯使用に」と考え苦心の末、“鞄型柳行李”を創案したと伝えられています。
“柳行李(やなぎこうり)”とは、奈良時代以前から豊岡で作られてきた“豊岡杞柳細工”と呼ばれる国が指定した伝統工芸品の籠細工で、時代に合わせて姿を変えてきた“豊岡かばん”の源流です。

“柳行李”を源流とする“豊岡かばん”、そして「服部」の長い歴史と伝統を守りつつ、現代の生活様式の変化に合わせて、宝物をもつような満足や喜び、感動するような“ものづくり”に尽力します。

「服部」の歴史

  • 1830

    社史で初代としている服部清三郎の二代前の服部庄兵衛(弁弥から改名)が、天保元年(1830年)に京都市で、「伊勢屋庄兵衛」という家号で創業。

    天保の大飢饉:

    1833年から1839年にかけて、全国的な冷害や凶作により、多数の餓死者を出した大飢饉が発生。

    大塩平八郎の乱:

    1837年に、大坂で起きた、大塩平八郎による反乱事件。

  • 1885

    明治18年(1885年)に服部藤輔が旅行用品関連雑貨問屋として服部商店を京都市(下京区烏丸仏光寺下る)で創設しました。

    内閣制度の創設:

    1885年12月22日に、太政官制が廃止され、内閣制度が創設されました。伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命される。

    日本銀行兌換銀券の発行:

    初の「日本銀行兌換銀券」が発行され、「大黒札」として親しまれた。

  • 1910

    法人設立明治43年(1910年)に、服部清三郎が鞄嚢(ほうのう)雑貨卸商として、服部合名会社を京都で設立し、全国主要都市に販売網を拡大しました。

    大逆事件:

    幸徳秋水ら社会主義者らが明治天皇を暗殺しようとしたとして逮捕、処罰された事件。

  • 1911

    明治44年(1911年)には、兵庫県豊岡市(現在の本社地)に柳行李(やなぎごうり)の仕入部を設置し、翌年明治45年(1912年)には、大阪市内(東区博労町二丁目18)に支店を設置しました。法人設立後は旅行用品だけではなく革靴など多品種の卸業を行い、各地への営業展開をしており、その後はフィリピン、大陸満州、上海と販売網は海外にもおよびました。

    日本初の飛行実験成功:

    1910年12月19日に、徳川好敏工兵大尉が、代々木練兵場(現・代々木公園)で、国産の飛行機による初の飛行実験に成功。

    南極探検出発:

    白瀬矗らが南極探検に出発。

    初のアパート建設:

    東京の池之端に、日本初の本格的なアパートが建設される。

  • 1913

    大正2年(1913年)、豊岡仕入部を支店に昇格し店舗を新築しましたが、大正14年(1925年)の北但馬震災で倒壊。昭和2年に社屋を再建しました。島藤(現:戸田建設)の設計・施工。一部手を入れておりますが、現在の本社は当時建設した建物です。

    大正政変:

    1913年2月、憲政擁護運動を背景に、第3次桂内閣が倒れ、第1次山本内閣が成立。

    森永製菓のミルクキャラメル発売:

    1913年6月、森永製菓が日本で初めてミルクキャラメルを発売。

  • 1915

    大正4年に柳行李の強度を増すための「柳行李縁金具」の特許を取得し、補強ベルトの十字止金具を考案し、大正時代から昭和初期にかけて開催された国際博覧会に出展し多数の受賞をしました。

    徳川慶喜の死去:

    1913年11月、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が薨去。

    第一次世界大戦への参戦:

    日英同盟を理由に、日本はイギリスの対ドイツ参戦に呼応してドイツに宣戦布告しました。

  • 1924

    大正13年(1924年)に大阪支店代表だった服部作次郎が二代目社長に就任しました。作次郎は、大阪鞄協会会長(第5代)、大阪鞄商工同業組合組長を歴任し、業界の活動にも尽力していました。

    関東大震災:

    1923年9月、関東地方で巨大地震が発生。東京をはじめとする関東地方を中心に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明者は10万人以上にのぼりました。

  • 1944

    昭和19年(1944年)に、戦災で大阪支店が焼失し、京都本店は強制立ち退き(隣が五条警察署のため)で取り壊しを受けて、両店とも休業状態に入りました。翌年(1945年)に本社を豊岡市に移転し、服部清之助が三代目社長に就任し、終戦の年に豊岡の「服部」となりました。

    本土空襲の激化:

    サイパン島陥落後、B-29による本土空襲が激化し、多くの都市が被害を受けた。

    国民総武装:

    本土決戦に備え、「国民総武装」が決定され、竹槍訓練などが始まる。

  • 1971

    昭和46年(1971年)には、株式会社服部を設立し、服部合名会社の営業権を継承しました。昭和52年(1977年)に服部隆一が社長に就任し、メンズバッグを中心としたオリジナル商品を手掛けてきました。

    NHK総合テレビの全番組カラー化:

    1971年4月1日より、NHK総合テレビの全番組がカラー放送に。

    沖縄返還協定調印式:

    1971年6月17日、沖縄返還協定の調印式が東京で行われた。

  • 2012

    平成20年(2012年)に現社長の服部清隆が就任し現在に至ります。

    長い歴史の中で、先代達とそれを支えてくれた従業員や取引先の方々を始めかかわりがあったすべての人々に感謝し、引き継いできたものを大切にしながら、鞄を通じてお客様により満足していただけるよう、今を精一杯の情熱を持って尽力します。
    そして、次の世代へ……。

鞄の産地「豊岡」

「服部」が拠点を置く“兵庫県 豊岡市”は、国内最大級の鞄の産地として知られています。
奈良時代から豊岡で作られてきた“柳行李(やなぎこうり)”と呼ばれる、杞柳で編んだ籠が“豊岡かばん”の源流です。“豊岡杞柳細工”は、国が指定した伝統工芸品に指定されています。
1200年前頃には豊岡の地を流れる円山川に自生していた“杞柳(こりやなぎ)”を編んだ籠が作られており、東大寺 正倉院にも収められていたと伝えられています。
江戸時代になると、豊岡藩の奨励により“柳行李(やなぎごうり)”の生産が盛んになり、日本全土に流通し旅行道具入れとして使用され、大名から町民まで広く使われるようになりました。
明治時代には柳行李に革の取手と帯革を施した“行李鞄”が誕生し、明治33年に開催されたパリ万博に出品され、世界から評価されたといわれています。
こうして豊岡の鞄は、長い歴史と伝統技術により国内最大級の地場産業へと発展していきました。


服部は優れた品質基準に合格した「豊岡鞄®」認定企業です

「豊岡鞄®」は、日本有数の鞄の産地である兵庫県豊岡市で生まれた地域ブランドです。
1200年前の柳行李を起源に、その長い歴史の中で技術を磨き確かな品質の鞄をつくり続けてきました。
“企業審査”と”製品審査”、この⼆段階の審査に合格した鞄だけが「豊岡鞄」です。
豊岡産の鞄の中でも兵庫県鞄⼯業組合が定めた基準を満たす企業によって⽣産され、品質を守るための審査に合格した製品を「豊岡鞄」と認定しています。
豊岡鞄として製品認定されるためには設けられた7つの品質基準を全て満たすことが必要です。その合格率は約5割。
外観だけでなく⽬に触れることのない裏側の縫い⽬ひとつのズレさえも許されません。
優れた鞄を安⼼して使っていただくために豊岡鞄は品質の細部にまでこだわることを約束します。







社名
株式会社 服部
代表
代表取締役 服部 清隆
本社
〒668-0022 兵庫県豊岡市小田井町13-25
東京店
〒111-0052 東京都台東区柳橋2-4-3
創業
1885年
設立
1971年
取引銀行
但馬信用金庫本店、三井住友銀行 豊岡支店、但馬銀行本店

大正から昭和の街並みを残す、豊岡震災復興遺産の服部本社

今からちょうど100年前の1925年(大正14年)に、兵庫県豊岡市あたりで「北但大震災」と呼ばれる大きな地震がありました。(M6.8、全焼1,712戸、全壊826戸、死者420人)
一番揺れがひどかったのは服部がある豊岡と温泉で有名な城崎で、当時の震度階級ではこれ以上が無い、最も強い揺れだった震度6を記録しました。
当時の建築物は木造が大半だったことと、もともと地盤が少し弱かった地域だったこともあり、被災地域の40%以上の家が地震の揺れで倒壊してしまいました。
地震が起きたのが昼食の支度をしている時間帯だったため、倒壊した家々から火の手が上がり、強い風にあおられて大きな火事が発生し、豊岡の町は市街地の70%ほどが焼けてしまいました。
被害を受けた豊岡の中心地では、復興に際して地震・火災に強いまちづくりが進められました。
1927年築(昭和2年築)の服部の本社社屋は「豊岡震災復興遺産」に登録されており、当時の街並みを体験することができます。